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岡山県議会議員 桑山 博之 |
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人には、一つや二つ忘れ難い体験や思い出があるものだと思う。
私には幾つかあるが、最も強烈なことはあの戦争(敗戦)直後の、京城(現ソウル、昔、日本第2の都市)からの「引き揚げ体験」である。
ちなみに私は、昭和16年2月生まれで引き揚げ時は5才弱、妹は3才、しかも弟は母の腹の中にいたのだから、母の苦労は想像に余りある。
父は、京城の巡査部長で29才余り、一応権力者側公務員という立場上か一緒に引き揚げることが許されなかった。
そこで当時28才の母は、身重でありながら独りだけで、長男でやんちゃな私、それに妹を連れて、持てるだけの荷物を持ち、文字通り命からがら引き揚げたのであった。後に母は、「あの時は、殺されるかと思った。」と述懐したことがある。
親不孝にも、私の記憶は極めておぼれげだが、その日京城の家を出る時、母が何か知ら山の方を指差して、実に深刻に何か言ったような気がする。
(多分、「38度線」と言う言葉をその時初めて聞いたような気がするが、今となっては確認のすべはない。)
さて、日本本土へは船で着き、そこから汽車を乗り継いで、津山の田舎の実家へ引き揚げたのだが、実はその帰りの汽車の中で、私は一度死んだのである。
満員の発車直前の汽車の中、私は母がちょっと手を離したスキに、人込みに紛れていなくなり、こともあろうに汽車の継ぎ目から下に落ち、泣いていたらしいのだ。(昔の汽車には継ぎ目に囲いはなかった。)
この時できた、足の第3指のツメの変形が今も痕跡として残っている。
当然、母は大慌てしたらしい。
13年前に逝った母のことを思う時はいっもこのことと一緒に思い出す。
生前母は、「どなたか引き揚げてくれた。」「お前は本当に運が良い。」と言ったことがある。
このことだけは、厳粛に覚えている。
そしてその時の体験から、自分は一ペンん死んだ、と考えるようになった。生きている方が、むしろ不思議な位の体験である。
今日まで、何回か人生のピンチに遭遇したが、その時いっもそのことが思い出された。
一ペンん死んだと言う思いが、何クソとなり、これ位のことで負けるかとなった。
まさに、生かされている自分という存在を実感するようになった。
今も、つくづく得難い体験だと感謝している。
(平成9年12月10日発行、津山検察審査協会会報より) |
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