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S.51年市議補選出馬までの特に6・7年は、公私かなりいろんなことがあった。 まず、彼はS.43年27歳独身で司法書士を開業した。翌年には結婚し、その翌年には長男(日本出版販売竃{社勤務)が生れ1年置いてS.47年には次男(徳島大・医学部付属病院、医者)が生れた。
司法書士の仕事の方はグングン伸びて、花形業種になり、桑山事務所には、その年に米井知博君(事務長)が、4年後のS.51年には前原一之君がそれぞれ入社し今日に至っている。
しかし、このS.51年という年に、彼が津山市議補選に出馬して「地方政治の道」一筋に突入することになろうとは、1年前までは全く予想できなかった。
勿論政治への関心は学生時代にも強かったが、まさかこういうカタチで出馬することになろうとは、ほんの偶然というほかない。
つまり、S.50年当時の生末市長(2期目)が、次期は参議院選へ出るので市長を辞めると表明された。津山の保守層は戦後津山初の参議院議員の誕生を期待していた。ところが、生末市長の後継予定者が、急に辞退するハプニングが起った。別の本命視された人にも断わられ、「時は迫るも候補できず」という状況になった。一時は、革新サイドにとって絶好のチャンスという状況になった。 結局、「市民大会」で生末3選の要請、受諾というストーリーになったがこの頃実は、当時の桑名県議を中心に毎晩「会議」があった。
彼は桑名県議の運転手兼秘書役をやりこの時の裏面史をかなり詳しく知っている。一言で言えば、この津山が革新に牛じられては大変だ、ということだった。「生末氏カムバック」の市民大会は、盛り上り老壮青婦人各代表の弁士が立った。
この時彼は、青年代表弁士として生れて初めて人前で演説することになった。あらかじめ弁論内容と起承転結を意識して練習してみたものの、本番は最高に上ってしまい、やっと弁論を終えた時は体内の分泌物が全部止ってしまったのか、胃や腹に激痛が出て、急拠城南医院で診察・治療を受けたほどだった。
そういう背景のときに、にわか仕立ての生末後援会事務局を当初一人だけで担当したのが彼だった。当時32歳。バックに桑名県議、岡野会頭、小原堅資氏、稲谷武男氏ら幹部の庇護の下ではあったが、具体的に事務レベルの仕事を編み出し、使命感をもって本気でやった。
ある時、本部選対会議の偉い人の前で、「小口カンパ方式の選挙」について説明して、笑われたことがある。何のことはない。若葉を図案化したバッジをつくり、それを1個100円で買ってもらい胸に付けてもらって、イメージと1体感を出そうという訳だった。小口カンパで多くの人に支えられた選挙を発案実践しようとしたのである。
当初はさっぱり売れなかったが、しばらくしてから競争で買ってくれるようになった。 また、「活力としあわせを創る会」のワッペンを丸型と長方形の2種つくり、自動車や玄関に貼ってもらった。これもドッとさばけた。
この手のやり方は津山初だったから、意外性、話題性はあった。
けっこう楽しいボランティアだった。 |
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