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彼の県議選出馬までの流れを拾ってみると、凡そ次のようなことだった。
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S.51年7月12目投票の市議会補欠選挙は、神崎氏の市長選出馬で一議席空いたことによる補選であった。保守2人(桑山、藤田)社会1人(上高)共産1人(藤本)の4人が1議席を争った。大激戦で、彼は18,409票で圧勝、初陣をかざらせてもらった。 |
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S.54年の何月だったか、現職の永礼県議が急拠病気で引退表明。
今期限り(S.54年4月限り)で引退し、S.54年4月執行の県議選には出馬しなかった。 結局S.54年4月の県議選は、現職の桑名県議に加え、新人戸室氏が出馬当選した。 |
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その後彼は、市議会議員2期目の選挙で史上初2,107票獲得してトップ当選した。(実はこのとき、桑山はトップだ、トップだと言い振らされてたるんでしまい投票4目前に気づき、急拠決起してあわや命拾いした。トップと落選は紙一重で あり気づかなかったら落選していただろう。) |
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その5ケ月後のS.54年9月27日、糖尿病が悪化し眼も悪く、高血圧でもあっ た桑名弘県議が急逝。 |
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津山選挙区は定数2人(2人区)で、1人欠けでも即補選にはならないが、ちょ うど1年後のS.55年10月になって知事選があったため、いわゆる県議の「便乗補選」が行われることになった。 その県議補選に誰が立候補するか?
実は、桑名氏の後だから、濃い人として小原氏か桑山という声がかなりあり推められた。
しかし彼は市議会でけっこう面白くやっていたので小原氏に出馬してもらって全力投球で応援する気でいた。小原氏が出馬していたら当選していたと思う。結局は永礼氏対神崎氏の対決となって永礼氏がカムバックを果した。 |
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その2年後、S.58年4月の県議一般選挙に誰が立候補するか、またまた話題になった。 「市長選ふくみて県議選も波乱か」「桑山市議の出馬ありうる。」などの記事も出た。(津山朝日新聞S.57年11月25日)
生末市長引退のウワサ、永礼県議の市長選へのウワサがある中、「桑山氏県議出馬」(S.57年12月17日)さらに「市議会鶴政会で表明、全員が激励した」などと書かれて、実は大層迷惑した。実際には、彼は「小原氏がやらないならやる」と言ったのである。あくまで先輩のしかも恩のある人に意欲があり態度決定されるまではこっちが先に表明すべきでないと考えていたのである。
従って今でも彼はこれを出馬表明とは考えていない。結局正式出馬表明なしに事実は進行し、結局桑山が出馬することになり、小原国宏氏には選挙全般の総括責任者として陣頭指揮を採ってもらった。
小原氏の「白いキャンパスに思い切り自分の絵を書け!!」という言葉は、
最大の励 ましで、生涯忘れられない。流石、慶応文学部出身の小原さんだと、ありし日のあの迫力ある弁論と共に想い出す。 戸室、桑山、矢山、染山の4人で争った結果、戸室氏と桑山の票差はわずか31票という僅差の大激戦で運よく県議選の初陣で当選した。 |
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以後、S.62年戸室、桑山、谷岡、H.3年桑山、戸室、藤木、谷岡、H.7年桑山、藤木、岡田(戸室氏市長選へくら替え)で選挙をした。
交互に岡山県下1の激戦区になるようだ。 |
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| G |
H.7年、永礼市長引退で、中尾、戸室、後山の保守3人の激突。激しい市長選となった。 彼は、一度前回市長選で後山氏にギりを果しており、永礼氏の戸室氏支援のあり方に不純を感じて、結局キッパリ中尾支持を打ち出して全力投球した。それにしても保守同志やるのはつらいことだった。 |
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| H |
H.7年10月石井対江田両氏のこれ又激しい知事選に直面した。彼は筋を通すこと、任務責任を果すことだけを考えた。これは命がけで石井支援を訴えた。僅差で、「人柄の石井」が勝利した。面目を果した。
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| I |
中央政界は、自民不振でH.10牢参議院選・岡山選挙区、2人区は、党中央が2人の立候補を強く要請したが、地元の党県連は江田氏出馬の前から加藤紀文氏1人に焦って対処した。自民2人独占は無理だし、強行すれば保守が分裂するという理由だった。
結果的には、「江田1位当選、加藤2位当選、一井落選」の結果となった。
我々自由民主党岡山県連は、もし 2人立てていたら2人共落選したかも知れないという点で、見当が良かったということになり、他県のような執行部の責任問題は出なかった。このことは、結果的には正しいようても、やむを得ないようでもあり、またさみしいようでもある。
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